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映画『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』解説&感想 エンタメ時代劇の原点とも言える大傑作

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どうも、たきじです。

 

今回は1935年公開の日本映画『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(『丹下左膳余話 百萬両の壺』)の解説&感想です。


監督は山中貞雄。28歳でこの世を去り、現存する映画は本作を含めわずか3本。そんな伝説の天才監督が、20代半ばで撮ったのが本作です。かなり古い映画ではありますが、とてもよく出来たエンターテインメント時代劇です。

 

 

作品情報

タイトル:丹下左膳餘話 百萬兩の壺

    (丹下左膳余話 百萬両の壺)

製作年 :1935年

製作国 :日本

監督  :山中貞雄

出演  :大河内傳次郎

     喜代三

     宗春太郎

     山本礼三郎

     高勢実乗

     鳥羽陽之助

     花井蘭子

     深水藤子

     沢村国太郎

 上映時間:92分

 

あらすじ

柳生家の当主・柳生対馬守は、代々伝わるこけ猿の壺に、百万両の埋蔵金の場所を示した絵図面が塗り込められていることを知ります。しかし、このことを知らなかった対馬守は、弟の源三郎(沢村国太郎)が江戸の道場に婿入りする際に引出物として与えてしまっていました。


対馬守は源三郎から壺を取り返そうとしますが、兄への反抗心からこれを拒否。壺を屑屋に売ってしまいます。やがて、源三郎も壺の秘密を知ることになり、源三郎も壺を探すことになります。


屑屋は、金魚入れを探していた隣人の幼い安坊に壺を与えます。安坊は父の七兵衛と2人暮らし。七兵衛は、よなよな安坊を置いて矢場に入り浸って遊んでいましたが、ある夜、ヤクザ者と揉めて殺されてしまいます。


矢場の女将・お藤(喜代三)と用心棒の丹下左膳(大河内傳次郎)は、身寄りのない安坊の面倒を見ることになり…。

 

解説&感想(ネタバレあり)

壺というマクガフィン

本作は、1つの壺を巡る人間の欲望や人情を描いた時代劇。物語の中心には壺があります。当然のことながら、壺は生き物ではありませんから意志を持って動きません。しかし、本作では、ストーリーと関係のないところで、登場人物の動きによって壺が揺れたり落ちたりとよく動きます。キーアイテムに注目させるちょっとした演出がうまいところです。


この壺を、対馬守の陣営や源三郎は必死に探すわけですが、やがて源三郎の方は、壺探しは街に繰り出す口実になって、矢場で遊ぶことが目的になっていくのが面白いです。源三郎は矢場で壺にニアミスしているわけですが、それには目もくれません。


本当は街に繰り出したいのに、妻の前では"行きたくない感"を出すのが可笑しいですね。「10年かかるか、20年かかるか」の反復も心地よいです。


最終的に源三郎は壺を手に入れるわけですが、矢場に来られなくなることを気にして、100万両のことなどどうでもよいという態度。100万両の埋蔵金が本当に存在するのか否かは不明のまま、映画は終わります。結局、本作の壺は一種のマクガフィンであって、物語を展開させる上で重要でありつつも、壺そのものには何の重要性も無いのです。

 


テンポのよいストーリー展開

本作は、脚本も演出も秀逸で、とにかく無駄がありません。この時代にこんなスマートな喜劇が撮られていたのかと驚かされます。特に、冒頭からテンポのよいストーリー展開は見事なもの。


シーンの始まりで、場面説明の映像を流しつつ、音声は画面にまだ登場していない人物の台詞を流す、というテクニック(一種のJカット)が冒頭から3シーン連続で用いられています。映像と音声で、2つの情報を同時にアウトプットすることで、どうしても説明的になりがちな映画導入をテンポよく見せています。


テンポよく、と言えば、本作で多用されているテクニックがもう一つあります。


例えば、矢場で七兵衛がヤクザ者と揉めた後のシーン。左膳に七兵衛を送っていくよう頼むお藤でしたが、左膳はこれを拒否。「金輪際おりゃあ(俺は)送っちゃ行かんぞ!」と叫んだ直後、シーンが変わると、左膳は七兵衛と夜道を歩いています。


あるいは、安坊が孤児となり腹を空かせているシーン。安坊を不憫に思った左膳が、お藤に飯を食わせるように促しますが、お藤はこれを拒否。「誰があんな子供にご飯なんか食べさせてやるもんか!」と言い放った直後、シーンが変わると、お藤は安坊に「どう、美味しい?」


このように、「ある行動をとることを拒否した左膳やお藤が、考えを改めてその行動をとる」というシーンにおいて、考えを改める場面をすっ飛ばして描きます。この"省略"が物語をテンポよく見せると共に笑いも生み出しています。


特に本作ではこのパターンの"省略"が何度も何度も繰り返されるので、リズミカルで心地の良い笑いになっています。この"省略"の後の結果の部分は、すべて左膳やお藤の優しさの結果というところがまた良いんですよね。


また、終盤に差し掛かったところで、いじめられるから送っていってという安坊に対して、左膳が「俺はいかねぇぞ!」と言うシーンがあります。ここでも"省略"が入るかと思いきや、一転、左膳がもじもじと悩む姿、居ても立っても居られず安坊を追いかけていじめっ子を懲らしめる姿を全て描いています。


ここで、これまでのパターンと明確な差をつけることで、これからクライマックスへと進んでいくストーリーに大きな抑揚がつけられているような印象を受けます。


余談ですが、上に挙げた2つのテクニックは、スティーヴン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』でも多く用いられています。同作は重苦しい内容かつ長尺であるにもかかわらず、これらのテクニックによって、観客を退屈させずに、リズミカルにストーリーを展開させています。

 


大河内傳次郎as丹下左膳

あらすじを見ても分かるように、本作は丹下左膳を軸にストーリーが進むわけではありません。丹下左膳が登場するのは、映画が開始して15分以上経過してからになります。


とは言え、その存在感は随一で、登場時から異様な雰囲気を放っています。粗暴でやや聞き取りにくい台詞回しは、現代の常識から言えばNGな発声に思えますが、本作においてはそれすらも強烈な個性として魅力的に映ります。


大河内傳次郎と言えばやはり"殺陣"なのでしょうが、本作ではクライマックスのチャンバラがGHQの検閲でばっさりカットされています。安坊が壺を売りに出たという状況で、時間的な焦りも加わって、緊張感溢れるシーンであったことは間違いないでしょうから、本当に惜しむばかりです。


結果として唯一の殺陣のシーンとなったのは、夜道で七兵衛の仇を討つシーンです(道場の源三郎との殺陣は茶番なので除外)。安坊に目を閉じて10まで数えろと言い、相手を鮮やかに斬ります。10カウントによる緊張感に加え、安坊の「あのおじさん、なんで唸ってるの?」に対する「博打に負けたんだろ?」。痺れます!直前のシーンの伏線も見事に決まっていますね。


本作は、コメディタッチであったり、丹下左膳が根っからの善人に描かれていたりと、他の丹下左膳作品とは一線を画しています。そのせいもあってか、原作者からの抗議を受け、タイトルが『丹下左膳"余話"』となったと聞きます。


しかし、皮肉にも、映画として評価の高い本作が、現代では最も見られている丹下左膳かもしれませんね。

 

最後に

今回は映画『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』の解説&感想でした。時代劇という属性もあってか、落語のニュアンスも感じさせる楽しい人情喜劇になっています。この天才監督が20代で世を去ったこと、GHQによる検閲により素晴らしいシーンが失われてしまったことが本当に惜しいです。

 

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