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映画『生きるべきか死ぬべきか』解説&感想 ヒトラー全盛の時代にナチスを風刺した傑作コメディ

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どうも、たきじです。

 

今回は1942年公開の映画『生きるべきか死ぬべきか』の解説&感想です。エルンスト・ルビッチ監督が、ヒトラー全盛の時代にナチスを風刺した傑作コメディ。1983年にはメル・ブルックスによって『メル・ブルックスの大脱走』としてリメイクされています。

 

 

作品情報

タイトル:生きるべきか死ぬべきか

原題  :To Be or Not to Be

製作年 :1942年

製作国 :アメリカ

監督  :エルンスト・ルビッチ

出演  :キャロル・ロンバード

     ジャック・ベニー

     ロバート・スタック

     ライオネル・アトウィル

     フェリックス・ブレサート

     シグ・ルーマン

     トム・デューガン

     スタンリー・リッジス

 上映時間:99分

 

解説&感想(ネタバレあり)

鋭い社会風刺のコメディ

ナチス・ドイツの侵攻を受けたワルシャワを舞台に、ワルシャワの劇団がナチス相手に大芝居をうつ物語。鋭い社会風刺が込められたコメディ映画ですが、これがヒトラー全盛の時代にリアルタイムで製作されたのだからすごいものです。


ヒトラー全盛の時代にヒトラーを風刺したコメディというと『チャップリンの独裁者』が語られることが多いですが、風刺という点でも、作品と完成度という点でも、本作も負けていません。後述するように、なんと言っても本作は脚本が素晴らしいです。

 

素晴らしいオープニング

ヒトラーがワルシャワの街角に一人で現れるという、興味を引くオープニング。彼が現れた理由を紐解くため、時間を遡って、ゲシュタポ本部から物語が始まります。


ゲシュタポが子供から父親のこと聞き出す"取り調べ"の最中、ヒトラーが現れ、"ハイル・ヒトラー(ヒトラー万歳)"と敬礼する一同。それに対し"ハイル・マイセルフ(自分に万歳)"と返すヒトラー。


泣く子も黙るゲシュタポによる取り調べというシチュエーションの緊張感の中、ヒトラーが自分に万歳するという"緊張の緩和"による笑いですね。この笑いの後、ここが本物のゲシュタポではなく、劇団の芝居の稽古シーンであったことが明らかになります。冒頭のシーンも劇団の俳優ブロンスキーが、自分がヒトラーに見えることを演出家に証明するために街へ出たのでした。


このオープニングは、映画のつかみとして素晴らしいシーンであると同時に、劇団がナチスの芝居の稽古をしていることや、ブロンスキーがヒトラーを演じていること、人々には彼がヒトラーに見えることが、メインプロットやクライマックスの展開への伏線になっているのがうまいものです。

 

緊張感とユーモアの同居

ナチスのスパイであるシレツキー教授(スタンリー・リッジス)とゲシュタポの接触を阻止するために、劇団の俳優達が大芝居をうってナチスを欺くというのがメインプロット。バレてしまわないかという緊張感と、その中で散りばめられたユーモアとが同居します。


劇団の看板俳優ヨーゼフ・トゥーラ(ジャック・ベニー)はゲシュタポのエアハルト大佐(シグ・ルーマン)になりすましてシレツキー教授と面会し殺害する一方で、今度はシレツキー教授になりすましてゲシュタポ本部を訪れ、エアハルト大佐と面会するという展開に。同じシチュエーションで役を変えて演じるという面白さ!


トゥーラが演じた緩いエアハルト大佐とは違い、本物は厳格な人物、かと思いきや本物もちょっと緩い男だったり。シレツキー教授の言動をそっくり真似てエアハルト大佐との会話に受け答えしたり。そんな様子にクスクス笑いが込み上げます。


その後も、シレツキー教授の死体が発見されたことを知らずに、トゥーラがシレツキー教授の格好でゲシュタポ本部を訪れるなど、スリリングかつコミカルな展開は止まず。常にドキドキワクワクさせてくれます。


劇団の皆でイギリスに逃れるため、劇場で大芝居をうつクライマックスはコメディとしての楽しさだけでなく活劇としての楽しさも最高潮。上述の伏線も決まって、最高に気持ちいいクライマックスになっています。


このクライマックスでは、ヒトラーになりすましたブロンスキーをとてもうまく使っています。マリア(キャロル・ロンバード)に言い寄るエアハルト大佐の前にヒトラーが現れるシーン(「シュルツ!」の"かぶせ"が最高に可笑しい)や、ナチスのパイロットがヒトラーの「飛べ」であっさり飛行機から飛び降りるシーンなんかは声を出して笑ってしまいました。

 

"To be, or not to be"

本作のタイトルはシェイクスピアの戯曲『ハムレット』の有名な台詞。主人公ハムレットの長台詞の冒頭部分です。作中では、トゥーラが演じるハムレットがこの台詞を言うと、ソビンスキー(ロバート・スタック)が客席を立ち、楽屋にいるマリアに会いに行くというくだりが繰り返されます。長台詞中のトゥーラはしばらく楽屋に戻らないから、その間はゆっくり二人で逢瀬を楽しめるというわけです。


すごく目立つ席から観客の間を抜けて立ち去るソビンスキーと、自分の演技に不満があって席を立たれたと思って戸惑うトゥーラの様子が滑稽なシーンです。ラストシーンでは、ソビンスキーとは別の男が席を立つことで二人とも戸惑うという、最高にセンスの良いオチも見せてくれます。


ただ、このシーンは日本語訳だと面白さが少し削られてしまいます。「生きるべきか、死ぬべきか」と意訳されていますが、原語では"To be, or not to be."です。"be"ば"存在する"という意味ですから、「(ここに)存在するべきか否か」というニュアンスを持ちます。


つまり、トゥーラが「ここに存在すべきか否か。それが問題だ」と言った直後に、ソビンスキーが席を立つ(=存在しなくなる)わけです。原語だとこの面白さも含まれるわけですが、日本語だとどうしても表現しきれません。

 

『ヴェニスの商人』の引用の意味

さて、本作には『ハムレット』ともう一つ、シェイクスピアの戯曲が登場します。それは『ヴェニスの商人』。クライマックスでグリーンバーグがナチス相手に放つ台詞は、『ヴェニスの商人』のシャイロックの台詞です。これを理解しておくと、このシーンの面白さ(感動)も倍増します。


『ヴェニスの商人』のあらすじをごく簡単に説明しましょう。アントーニオという商人が友人のためにユダヤ人の高利貸しシャイロックから大金を借ります。この時、担保にしたのが自分の肉1ポンド。アントーニオには金を工面する当てがありましたが、彼の商船は嵐で難破してしまい、彼は財産を失い、金を返せなくなります。


やがて裁判となり、シャイロックはアントーニオの肉を切り取ることを主張しますが、裁判(実はインチキ)の末、シャイロックは肉を切り取ることもできず、金も返してもらえないどころか、全財産を失い、さらにはキリスト教に改宗させられるというオチです。


上記の通り、この作品は、悪役のシャイロックは散々な目に遭い、その他はみんなハッピーになるという喜劇です。この作品が書かれた16世紀という時代を考慮すると、ユダヤ人の悪役を笑い物にする喜劇になっているのも分かりますが、近年は悲劇的な結末を迎えるシャイロックに同情的に描かれることも少なくないようです。


映画に話を戻しましょう。グリーンバーグの台詞は、ユダヤ人に対する偏見への怒りを込めたシャイロックの台詞の引用しています。ご存知の通りユダヤ人はナチスにより迫害されています。それらを踏まえれば、グリーンバーグ(名前からユダヤ人と思われます)が、ナチスに対してこの台詞を放つことに意味があるのです。

 

我々には目がないというのか?

我々には手がないというのか?

器官も、感覚も、感情も、激情もないというのか?

我々だって、同じ物を食べ、同じ武器で傷つく

同じ病いで苦しみ、同じ手当てで治る

夏の暑さも、冬の寒さも感じる

刺されれば血は出るし

くすぐられれば笑う

毒を盛られれば死ぬ

屈辱を与えられれば、復讐する!


つまり、このシーンは、

 

  • シェイクスピアによって書かれた台詞そのものが素晴らしいこと
  • 主役を演じることに憧れ続けたグリーンバーグの念願が叶うシーンであること
  • 不当に扱われるユダヤ人の怒りを象徴する台詞をナチスにぶつけるシーンであること


これらが重なって、極めてエモーショナルなシーンになっているという訳です。

 

最後に

今回は映画『生きるべきか死ぬべきか』の解説&感想でした。ヒトラー全盛の時代に、ナチスを鋭く風刺したコメディ映画の傑作。オーストリアがナチスに支配された時代を描いた『サウンド・オブ・ミュージック』がオーストリア讃歌だとすれば、本作はポーランド讃歌と言えるかもしれませんね。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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